【対話日記】被災地での「手遊びカフェ」を訪ねて

「対話日記」では、対話工房に関わる人々それぞれの視点によることばを紹介していきます。今回は、東京からの参加メンバーのひとり、内田伸一が担当。彼が対話工房に参加するきっかけになった、2011年9月・初めての女川町訪問を記した体験記です。

 


取材・文:内田伸一

 

2011年9月。震災から半年後の宮城県・女川町を訪ねました。この町の仮設住宅エリアで行われた「手遊び(てすさび)カフェ」を取材したので、そこで行われたこと、また当地で感じたことを記しておきます。フリーランスライターの僕は、ふだん暮らす東京で3月11日を体験しました。その後、大勢がボランティアなどで東北に向かうなか悶々とすることもありましたが、今回初めて震災後の東北を訪れた人間です。直後に現地を訪れた人や、何度も通う人とは視点も違うと思いますが、震災とこれからを継続的に語り合うとき、少しでも役立つ要素がこのテキストにあればと願います。

 

photo by Toshie Kusamoto
photo by Toshie Kusamoto

 

2011年9月時点の女川町のようす

 

女川町は宮城県牡鹿郡群にある港町。水産都市・石巻市に囲まれるように立地し、豊かな海の幸が集まる漁港として知られます。しかし震災では沿岸部を中心に甚大な被害を受けました。また、町の南側にある女川原子力発電所(東北電力)では、津波の直撃は逃れたものの全原子炉が自動停止したとのことです。

 

9月17日、震災リゲインのメンバーと車で女川町入り。沿岸へ近づくにつれ震災の爪痕が目につきます。海から離れた谷間の土地にも見られる津波のあとや、海水で下半分が赤く変色した森、土台を残し崩壊した女川駅。そして女川漁港の周りにあったという繁華街は、いくつかの大型建築を残して波にさらわれた状態です。鉄筋がちぎれ、真横に倒れた建物もありました。

 

しかし僕にとって一番印象的だったのは、あたり一帯にモノがなくなってしまった“かつて街だった場所”の空虚さです。高台の町立病院からこの風景を眺めて思いました。街とはこんなふうに消えてしまうものなのか。それは震災後半年の瓦礫撤去の成果でもあり、復興を進める町にそんな感想は失礼かもしれません。ただ、他所者にはかつての町の姿を想像できないほどの消失感に衝撃を受けました。また、女川町では震災で約900人が犠牲になっています。自分の町の住人が1割近くいなくなってしまった。これも想像しがたいものです。この町はそうした状況からの再生を目指す過程にあります。

photo by Toshie Kusamoto
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「手遊び(てすさび)カフェ」とは何か

 

そして、生き延びた方々の暮らしも確かにここにあります。内陸側の高所は、沿岸の平地ほどには被災していません。今回訪ねた女川第一小学校 応急仮説住宅もそうした場所のひとつ。学校のグラウンドを用い、60近い住宅が軒を並べます。ここで行われる「手遊びカフェ」の取材がこの日の目的でした。

 

手遊びカフェとは、京都市立芸術大学の学生と先生がたによる試み。訪れた先で仮設カフェを開き、地域の人々とお茶を飲みながら、伝統的な手仕事を共に行います。こうした作業は心を少し落ちつけたり、何気ない会話のきっかけをくれたりするようです。そうして住民主体で気軽に集える場づくりを手伝いつつ、人々の生活で本当に必要とされているモノ・コトを考える取り組みです。

 

到着するとすでに仮説住宅の集会場前に、手作りの折りたたみ式テーブル&ベンチが広げられていました。玄米茶やジンジャーエール、またビスコッティなどのお菓子をふるまう屋台カフェに並んで、各種の「手遊び」屋台があります。

 

「染め抜き屋台」では暖簾や衣服を持ち寄り、ステンシルの手法で好きな文字や絵を染められます。「こぎん刺し屋台」は、青森に伝わる刺繍法でオリジナルの包みボタンを作ります。「金継ぎ屋台」では欠けた陶器の修復のほか、漆器への箔模様付けなども体験可能。ほかにも大工道具を揃えた、よろず相談コーナーがありました。けして広いとは言えない約9坪の住宅に役立つ、棚づくりなどを手伝っています。教員のひとり、小山田徹 准教授に話を聞きました。

 

「もともと“緊急避難時におけるコミュニティを考える”というテーマで、大学内の特別研究助成を活用した自主ゼミ的な動きが出発点です。生徒たちから提案があり、彼らが僕たちを担当教員として指名しました。議論を行い、皆で保存食をつくるなどの活動から、被災地での手遊びカフェ実施も決まりました。ボランティア的な意味だけでなく、皆が自身の生活やコミュニティを考える機会になればと思っています」。

 

小山田さんはパフォーマンスグループ「ダムタイプ」の一員として知られるほか、コミュニケーションや共有空間をテーマにさまざまな活動を続けています。今回のことも、ご自身は「作家としてというより、ただ生活空間をどう考え、つくっていくか。その試みの延長線上にあります」と話していました。

 

震災で失われたのは命や建物だけでなく、生き延びた人々の地域コミュニティ分断も懸念されます。避難所や仮設住宅は非常事態の寄り集まり。集会所もありますが、当然、建物さえあれば人のつながりが生まれるというほど簡単ではありません。そうした状況でのつながりの場づくりを、住民の自主性を損ねない形で後押しするのが、手遊びカフェの目標のひとつといえそうです。

 

photo by Toshie Kusamoto
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「染め抜き屋台」を体験してみる

 

僕は頭に巻いていた手ぬぐいを使い、「染め抜き屋台」に参加させてもらいしました。教えてくれるのは、工芸家の元気な学生のみなさん。仮設住宅で暮らすお年寄りや、子どもと一緒のお母さんたちも一緒です。カラフルな顔料が並ぶ作業台を前に「まず染めたい文字や模様を決めましょうか」と聞かれ、「では、去年生まれた長男の絵にしたいです」と答えました。

 

言ってすぐ、しまったと思いました。ここには震災で幼い家族を失った人もいるかもしれない。当然のことに頭が回らない自分を恥じましたが、幸い隣のおばあちゃんも「私も孫が5人」「染め抜きは母も昔よくやった」と教えてくれて、短い時間ながら皆で話ができました。ここではありふれた会話にも気を遣う場面が少なからずあるのではないか、しかしそこから前へ進む助けになり得るのもまた対話ではないか(僕の失敗談は別として)、と感じた次第です。

 

染め抜きは、自分で描いた絵を学生さんが型に起こし、それをまた自分でカット。生地にのせて好きな顔料を塗ると、綺麗にできあがります。ほかにも漆器に名前を箔押ししてもらう女性や、ボタンづくりに一生懸命な子どもたちの姿が。仮設住宅の一角にのんびりとした活気が生まれました。

 

夕方には集会所で映画上映も。これはカフェと別の動きですが、映像の仕事に携わる方が奔走し、無料上映許可を得て実現したそうです。皆が少しずつ、自分にできるかたちで、新生活の始点としての仮設住宅に向き合っているように感じた一日でした。

 

photo by Toshie Kusamoto
photo by Toshie Kusamoto

 

滞在中に見聞きし、感じたこと

 

もちろん、町にはまだ多くの課題があるだろうことも痛感させられます。例えば今回、自室に棚を取り付けてもらったご老人のお話。「海で稼いだ金で建てた家が、海に持ってかれたね」と寂しそうに微笑む彼は、仮設住宅の契約期間=2年が切れた後のことを心配しています。自宅のあった土地にまた家を建ててよいのか、または売却などの措置がとれるのか、未だにわからない。今日も自治体の説明会に行ってきけれど…と話してくれました。

 

さらに、この時点ではまだ仮設住宅に入居できず、隣の小学校校舎をはじめとする避難所での生活が続く方々もいたようです。そうした違いによる双方の心理的緊張は少なからずあるのではないでしょうか。この町に来る途中で出会った被災地ボランティアの青年は「仮設住宅同士でも、ちょっとした設備の優劣が住民を刺激してしまう」と話していました。これも震災後の地域コミュニティにある、見えない傷かもしれません。

 

ただ、自分たちで新たにつながりの場を作ろうと動き出している人々がいるのも確かです。今回の手遊びカフェ実現にも、彼らに賛同した2人の働きがありました。この仮設住宅で暮らす岡裕彦さんと、彼の飲食店(津波で消失)の改装を手がけた県内名取市の建築家・海子揮一さん。サーフィンと音楽を愛するワイルドな風貌の岡さんと、対照的に落ち着いた笑顔が魅力的な海子さん。彼らは京都での小山田さんらの動きに共鳴し、再び手を携えています。

 

photo by Toshie Kusamoto
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それぞれが持ち帰ったものとは

 

翌朝は女川町の西・約45kmにある「長松園森林公園町民の森」のキャンプ場へ。手遊びカフェの一行はここで夜を過ごし、京都へ戻る支度中でした。昨日の感想を尋ねると、よろず相談で棚を作った男子生徒は「学校ではできたことが、少し道具が足りないだけで上手くいかないなど、自分の無力さに歯がゆい思いをした」と語りました。包みボタンづくりを担当した工芸科の女子生徒は「工芸品を実際に使ってくれる人の顔、そして使ってもらえる場に向き合えたことで、逆にこちらが元気をもらった」とのこと。

 

小山田・海子両氏には、今回同行した映像作家の泉山朗土さんがインタビューし、その映像はこちらで見ることができます。収録後に「大震災からの復興という大局的な課題に対し、手遊びカフェのような局所的と言ってよい試みがどうつながると思うか」と聞くと、小山田さんは短くこう答えました。「大局的なことを動かすには、結局たくさんの局所的な動きが必要だと思うんです」。

 

この取材の後、11月には女川町長選が行われ、新人の須田善明氏が無投票で当選。女川高校グラウンドには金融機関や郵便局を含む合同庁舎が整備され、商業エリアのオープンも目指されています。避難所住まいの方々の仮設住宅への引越は完了したとも聞きますが、現地は厳しい冬を迎えました。

 

いっぽう岡さんたちは女川町立病院の敷地内で、新たなコミュニティカフェ「おちゃっこ倶楽部」を始めました。海子さんと震災リゲインのメンバーも「対話工房」プロジェクトをスタートすることになりました。

 

僕自身はあの震災をきっかけに、誰とどんなふうに、どの程度関わり得るのかまだ明確な答を得ていません。東京に戻るとまた自分の日常が追いかけてきました。しかし、目の前の道路を北へ400km走った先にあの町が、そして話をしてくれた人々の顔があることは忘れずにいたい。そして、あそこでの日常と僕のそれとは必ずしも別ではないということも。できればまた訪れ、話をし、考えたいと思っています。

photo by Toshie Kusamoto
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内田 伸一 Shinichi Uchida

(ライター・編集者)

1971年、福島県いわき市生まれ。東京在住。岩手大学人文科 学部人文科学科(行動科学研究)卒業。若手建築家たちによる雑誌『A』、英国発 カルチャー誌の日本版『Dazed & Confused Japan』、カルチャーウェブサイト 『REALTOKYO』などに参加。日英バイリンガルの現代美術誌/ウェブサイト『ART iT』で副編集長を務めた後、現在フリーランス。 http://www.shinichiuchida.com/



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